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五島列島の上五島とクジラ 捕鯨の跡地を訪ねて

中通島

まさに日本が国際捕鯨委員会脱退したというタイミングだが、五島列島の歴史を振り返るとき欠かせないのが捕鯨。五島はクジラとともに繁栄してきた島とも言える。上五島中通島の有川港周辺では、捕鯨の歴史を垣間見られる史跡や施設が多くある。ここでは、有川の捕鯨の歴史を振り返ってみる。

五島はクジラとともに栄えた歴史

五島にはクジラとともに栄えてきた歴史がある。福江の歴史博物館も捕鯨漁で栄えた商家が使われている。それでは有川にあるクジラに関するものを見ていこう。

有川港ターミナルの頭上にディスプレイされている実物大のクロミンククジラ模型と骨格標本。全長9.6メートルの雌。クロミンククジラは、現在、日本が南極海で行っている捕獲調査対象の種。まず有川港に着くとこのクジラが出迎えてくれる。

江戸時代に有川の捕鯨に尽力した江口甚右衛門正利の銅像。父甚左衛門が始めた捕鯨漁だったが、1661年有川湾での漁場境界争いが発生した。そのときに幕府にも訴え有川に捕鯨を取り戻した尽力者として語り継がれている。

ナガスクジラの顎の骨でできた鳥居がある海童神社。このナガスクジラは、昭和48年に捕獲されたもの。この神社は、元和3年(1617年)から3年間、毎年6月17日に限って近くの海で溺死するものがあり村民たちが不気味がっているときに、そのときの乙名役の夢枕に神託があったという。そのお告げにもとづいて翌年の6月17日に石祠をたて奉納したところ事故がなくなった。それ以来神社として奉納されているとのこと。

有川港近くの小高い山にある鯨見山展望台の案内図。

山頂の小屋が鯨見山展望台。江戸時代、有川鯨組の見張り場所があったところ。歩いても登り切れる山。車道もあるのでハイキングがてらに登ってみるのもよい。

展望台から海を眺めたところ。鯨が獲れたときには、沖に見える小島から狼煙があがったらしい。その狼煙を見て解体などの準備を整えたという。

明治35年に撮られた捕鯨基地で解体される鯨の様子。江口甚右衛門正利が有川の捕鯨を取り戻してから、この地に「有川捕鯨組」を組織して明治17年までここを基地とした。その後は、五島捕鯨株式会社があとを引き継ぎ明治44年に休業するまでここを捕鯨基地として活用した。

現在の捕鯨基地跡。捕鯨を行ってきたままの形で跡地は残ってる。浅瀬で広い敷地で鯨の解体をしていたのが想像できる場所だ。

明治38年に有川で捕鯨業など事業を始め、五島捕鯨株式会社が不振になったときに会社を吸収し従業員の雇用も引き継ぎ地元の発展に貢献した原父子の銅像。このように町に残る銅像を見ていくと捕鯨の歴史と有川の発展の流れがよくわかる。明治44年、鯨の回遊が激減したことが原因で有川での捕鯨は幕を閉じた。

有川港ターミナル前にあるザトウクジラのモニュメント。離れたところにはイルカの像もある。

有川港ターミナルに設置されたノルウェー式捕鯨砲。実際に使用されていた捕鯨砲。現在捕鯨は一部の諸国から非難されているが、我が国の捕鯨の歴史をよく知ってもらえば捕獲した鯨は無駄なく利用し食としてもいただいてきたことが理解してもらえるはずだ。一部の種の鯨が増え続けることで海洋生物のバランスが崩れることも世の中にもっと知られてほしい。

有川の捕鯨の歴史を見ることができる鯨賓館ミュージアム

新上五島町 鯨賓館ミュージアム。有川港ターミナル内にある。有料で入館できる。

鯨賓館ミュージアムでは、有川の捕鯨の歴史を中心に展示されている。そのほかには上五島での教会や横綱佐田の山の展示コーナーがある。教会については、有川出身で教会建築の父とされる鉄川與助氏の設計図なども展示されている。

有川では鯨肉なども買うことができる。五島うどんの里に併設されている土産物店でも取り扱っていた。また鯨と五島うどんのセットなどもある。せっかく有川を訪ねるのであれば鯨料理も堪能してみるのもおすすめ。