五島の歴史

福江島

五島列島に一度は行くべき3つの理由

五島列島、聞いたことはあるが実際に行ったことがあるというひとになると少ないかもしれない。五島列島では単なる離島の観光だけではなく、日本列島地勢形成の成り立ちの痕が見れたりや日本の国境などを感じ取ることができる場所でもある。五島列島に行く価値がある大きな3つの要素を取り上げてみよう。 日本列島の成り立ちがわかる地質を見ることができる 五島列島は、日本列島がユーラシア大陸から分離して形作られた地形や地...
福江島

五島列島福江島の捕鯨解体場 カグラサンを訪ねる

五島列島はかつては捕鯨が盛んに行われていた。現在では五島の近海では鯨が獲れないこともあり、長らく捕鯨は行われていない。しかし、かつての捕鯨基地の跡地はいまでも残っている。ここでは福江島に残る捕鯨後に解体をしていた跡地を探してみた。 カグラサン跡地 福江島の捕鯨解体跡地は、カグラサンと呼ばれている。これは解体しているときの使用人の動きが神楽を踊っているときのような仕草から「神楽さん」などという呼び名...
福江島

五島列島福江島の城下町に残る武家屋敷通り

五島列島福江島は城下町。その城下町にあった武家屋敷が数多くいまでも残っている。武家屋敷が残っている通りは武家屋敷通りと呼ばれていて山本二三美術館などもあり観光スポットのひとつにもなっている。その武家屋敷通りを訪ねてみた。 武家屋敷通りには山本二三美術館や休憩スポットも 福江城の近くに位置する武家屋敷。武家屋敷通りは、1634年(寛永11年)当時の藩主であった盛利公が福江直りを行い、五島藩士約170...
福江島

五島列島福江島にある江戸時代最後に築城された福江城(石田城)

五島列島にある城跡では福江城が有名。福江城の蹴出門は通りに面してあり、福江のシンボル的な存在にもなっている。地元では、石田城とも呼ばれている。江戸時代最後に建てられた城としても知られている。 福江城の本丸跡には高校がある 福江城は1863年(文久三年)に築城。幕末で最後に建てられた城。外国からの国土防衛という目的で築城が許可された。当時は城壁の三方が海に面している海城だった。しかし、明治5年に解体...
福江島

五島列島福江島の明時代の貿易商が建てた中国風廟堂 明人堂

五島列島には古くは明国から貿易商が訪れていた。時の領主はその通商を認め、住居地も与えた。そのときの貿易商たちが安全な航海を祈るためにつくったのが廟堂。その歴史を留めるために福江島には明人堂という建物が残っている。 明の商人が五島にやってきた証 1540年(天久9年)宇久盛定公が領主のときに当時の明国から貿易商の王直が通商を求めに五島に来航した。藩の財政がひっ迫していたこともあり盛定は通商を許可。居...
福江島

五島列島福江島の空海記念碑 辞本涯

五島列島福江島は遣唐使船が最後に寄港した日本の地として関連遺跡も多く残っている場所。そのうちのひとつが三井楽柏港の高台にある空海記念碑の辞本涯。空海が日本の見納めとして残した言葉を記している。 空海が五島を見納めの地として残した言葉 遣唐使の留学僧として唐に渡った空海は五島を最後の地として旅って行った。そのときに残した言葉が「辞本涯(じほんがい)」。この言葉を碑にしたものが三井楽柏に建っている。 ...
福江島

五島列島福江島にある遣唐使守護人を祀る 岩嶽神社

五島列島福江島には遣唐使にまつわる跡地は多い。その中のひとつに遣唐使の守護の任にあたっていたひとを祀っている神社がある。遣唐使船に水を汲んだといわれる井戸の近くにある岩嶽神社がそれだ。 遣唐使船の守護の任にあたったくさり鎌名人を祀っている岩嶽神社 福江島三井楽町柏には、遣唐使船に水を汲んだといわれる井戸がある。この場所については、「遣唐使船が水を汲んだ ふぜん川」の記事に書いてある。このふぜん川の...
福江島

五島列島福江島にある河童の足跡

五島列島には数多くの河童にまつわる話が残されている。そんな中、福江島には河童の足跡が残っているという情報を得た。それは早速行かなければと調査しに現場に行ってきたのでレポートしよう。 弁天島の岩肌に遺された謎の跡は河童の仕業? 河童の足跡があると言われている場所は、福江島の三井楽町にある白良ヶ浜。この海岸に弁天島と呼ばれている小島がある。岸から近いところにあるので潮が満ちているときには小島になる場所...
福江島

五島列島名物 五島いものルーツを語る顕彰碑

五島列島の名物にかんころ餅や芋焼酎などがあるが、福江島にさつまいもが渡ってきた歴史を示す碑が建っている。現在の五島いものルーツを知ることができる五島さつまいもの顕彰碑を紹介しよう。 田原伝吉が鹿児島より持ち込み田中庄三郎が発展させた五島いも 福江島に現在の五島芋の苗の元になったのが持ち込まれたのは江戸末期にさかのぼる。それ以前にもいもの栽培は行われていたが、育てるのに十分できる環境になかった。新た...
福江島

五島列島福江島 三井楽教会近くにある嶽家牢屋敷跡地

五島列島にはキリシタン弾圧の跡地が教会のある場所の近くに点在する。その中のひとつが福江島にある嶽家牢屋敷跡地だ。三井楽教会近くのあまり目立たない場所にあるキリシタン弾圧跡地。三井楽教会を見学した後には併せて見ておきたい場所。 三井楽で信者を投獄した嶽家牢屋敷跡地 福江島の三井楽にある嶽家牢屋敷跡地は、明治元年に信者がいることが見つかりひとりの信者の宅地に投獄した場所だ。その跡地が保存され碑が建てら...
福江島

五島列島福江島の珊瑚で栄えた富江町

五島列島の福江島にある富江町は珊瑚で栄えた町。富江の町にはいたるところに珊瑚がモチーフになったものがある。珊瑚の資料館や珊瑚に関する碑など富江町の珊瑚について訪ねてみた。 富江町は珊瑚であふれている 明治19年に男女群島沖で珊瑚が見つかって以来、富江町では珊瑚細工で栄えてきた。現在はその珊瑚細工もかつてほどの勢いはみられないが、いまでも富江町は珊瑚を誇りとしている。 富江町のトレードマークは珊瑚の...
福江島

五島列島福江島に残る潜伏キリシタン跡地巡り

五島列島では2018年に長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産として登録された。しかし、注目を浴びるのは教会群に集中している。ここでは福江島に残る教会以外の潜伏キリシタンの跡地を訪問しまとめてみた。ダークツーリズムの一環としても注目したい遺跡群。 潜伏キリシタンとかくれキリシタンの違い 潜伏キリシタンとかくれキリシタンというワードの違いについてだけ書いておこう。潜伏もかくれも同じ意味とし...
福江島

五島列島福江島に残る最古の漁法 スケ網

五島列島福江島には浅瀬を利用した原始的漁法の跡地が現存している。スケ網(あん)と呼ばれる漁法で潮の満ち引きを利用した単純な漁法。現在に残る昔ながらの漁法跡地を訪ねてみた。 スケ網は自然の摂理を利用した漁 スケ網またはスケアンと表記されるこの漁法は、潮の満ち引きを使った漁法だ。満潮のときに入ってきた魚を干潮で海水が引いたときに堤防の中に取り残された魚を取るという原始的な方法。しかし、現在でも利用でき...
福江島

五島列島福江島にある史跡 勘次ヶ城

五島列島福江島にある勘次ヶ城と書くとどこかの藩の城郭かと思ってしまうが、江戸末期に大工だった男が住んでいたと言われる場所の石塁のことを指す。摩訶不思議な言い伝えの伝説が残る海岸沿いのサイクリングコースにある五島の史跡を紹介しよう。 大工の勘次が住んでいたので勘次ヶ城 江戸末期に大工だった勘次という男がこの石塁のある場所に住んでいて、「ここは河童と一緒に作った石塁だ」語っていたと言い伝えられていると...
宇久島

五島列島宇久島の2つの資料館 宇久島資料館・浜方ふれあい館

初めて訪れる地では博物館や資料館は旅人にはその地の情報を教えてくれる貴重な施設だ。五島列島の宇久島には2つの資料館がある。宇久島の規模にしたら2つも資料館があるといってもいいかもしれない。その資料館を紹介しよう。 佐世保市宇久島資料館 宇久島は佐世保市の島。その佐世保市が運営しているのが宇久島資料館だ。宇久島で発掘された歴史的資料はここで見ることができる。 宇久島資料館は宇久平港から徒歩で5分ほど...
福江島

五島列島の潜伏キリシタンが入れられた楠原牢屋跡

五島列島の潜伏キリシタンの歴史を知るときに当時信者たちが受けた迫害についても目を背けることはできない。その迫害の跡地もいくつか五島列島には残っている。そのうちのひとつである楠原牢屋跡を訪ねてみた。 楠原教会近くにある復元された牢屋跡 福江島にある楠原教会から400メートルほど離れたところに楠原牢屋跡はある。ここは、信者であった狩浦喜代助の自宅を牢として改造して使ったもの。一度は解体されているが現在...
宇久島

五島列島宇久島の平家盛上陸地 火焚崎

五島列島の名のもとになる五島家のルーツである平家盛が初めて五島に上陸した地が宇久島にある。火焚崎と呼ばれる家盛公上陸地を紹介する。 火焚崎は宇久島の西端にある 五島家のルーツは、壇ノ浦の戦いで敗れた平清盛の異母弟である家盛公が宇久島に上陸したことに始まる。後に子孫が宇久性から五島性に改名して五島家となった。五島列島の名の由来でもある。その家盛公の上陸の地が宇久島にある火焚崎(ひたきざき)と呼ばれる...
福江島

世界遺産も作った教会建築のパイオニア 鉄川与助の五島列島にある教会

五島列島にある教会群のうち代表的な教会の建築に携わったのが鉄川与助だ。鉄川与助は教会建築のパイオニアとも称された人物。世界遺産に登録された五島列島にある4教会のうち3教会は鉄川与助による建築だ。五島列島に現存する鉄川与助が建てた教会を紹介しよう。 鉄川与助のプロフィール 鉄川与助は、1879年(明治12年)長崎県南松浦郡魚目村(現在の新上五島町)の出身。父親が大工の棟梁で与助も高等小学校を卒業後に...
福江島

五島列島福江島にある明国人ために作った中国風井戸 六角井

五島列島福江島には、明国から来ていた貿易商のために掘らせた中国風の井戸が残っている。六角井(ろっかくいど)と呼ばれている史跡だ。 六角井は500年近く前に作られた井戸 天文9年(1540年)に東シナ海で活躍していた明国の貿易商が宇久盛定に通商を求めてきた。当時財政難だった藩は、貿易商に住居を与え飲み水や船舶用の水を得るための井戸を掘らせた。そのときの井戸が六角井だ。 六角井は、五島市の住宅街の一角...
宇久島

五島列島宇久島に残るガード下にある昭和の壁画広告

五島列島の宇久島には、昭和に描かれた壁画広告がいまでも残っている。壁画広告とは、壁画に直接ペンキなどで描いた広告のこと。都市部ではもうほとんど見ることができない貴重な昭和の遺物が現存している。 昭和初期に描かれたという壁画広告は消滅寸前 宇久島の神浦地区あるガード下には、両壁に描かれた壁画広告がそのまま残っている。当時の商店や船、醤油などを絵画や文章などで描いた広告。いまではこのような昭和に作られ...
宇久島

五島列島宇久島にある三浦神社の大ソテツ

五島列島の宇久島にある神社にはソテツの巨樹がある。境内のほとんどはソテツで覆われているほどの群がり様。このソテツには悲恋の話しがまつわっている。 三浦神社の大ソテツ 宇久島の三浦神社は、大きなソテツがあることで島内では有名だ。昭和33年には長崎県の天然記念物にも指定されるほど。しかし、この大きなソテツにはある悲恋のストーリーがあった。 三浦神社の鳥居。見る角度によってはソテツのほうが大きく感じるほ...
福江島

五島列島福江島にある富江藩陣屋の石蔵

五島列島の福江島にあった富江藩が持っていた石蔵が現存している。富江藩陣屋の石蔵を紹介しよう。 現在でも頑丈な陣屋の石蔵 1661年に五島藩より三千石を与えられた富江藩。その富江藩が設けた陣屋のなかの石蔵の外壁が現存している。 富江陣屋石蔵への案内標識。福江島の富江の中心地にくるとこの標識が見えてくる。 当時の富江陣屋の略図。現在は石蔵しか残ってないが、陣屋全体は相当な規模を誇っていた。 陣屋の石蔵...
宇久島

五島列島の祖と言われる宇久島にある平家盛の足跡

五島列島の五島の名は、平家盛が宇久島に上陸して居を構えたことから始まると言われている。宇久島に残る平家盛の足跡を追ってみた。 平家盛は平清盛の異母弟 平家盛は、平清盛の異母弟にあたり壇ノ浦の戦いのあとに、宇久島に逃れて移り住んだと言われている。宇久島では、宇久性を名乗り、後の子孫が五島性に改名し五島家の祖と言われる人物である。五島列島の歴史を紐解くときには、平家盛の名は避けては通れない。 平家の紋...
宇久島

日本遺産 五島列島宇久島にある戦争遺跡 旧佐世保海軍警備隊宇久島特設見張所跡

五島列島にある戦争遺跡はあまり多くはない。その中でもはっきりとわかる形で残っている場所が宇久島にある。五島列島の貴重な遺跡を訪ねてみた。 城ヶ岳に山頂にある電波探知見張所跡 宇久島の中央にそびえる山が城ヶ岳だ。山頂は現在は展望台にもなっていて宇久島を一望できる観光スポットだ。この山頂に日中戦争時、中国大陸からの敵機を探知するための見張り所が設営された。 この山が城ヶ岳。宇久島の中央にあるので島の至...
宇久島

五島列島 宇久島とクジラ 捕鯨の跡地を訪ねてみた

五島列島最北端の島、宇久島。ここもかつては捕鯨で栄えた島。その捕鯨の跡を宇久島で追ってみた。 捕鯨の跡が色濃く残る宇久島 これまで五島列島の捕鯨については、「福江島とクジラ」と「上五島とクジラ」の記事でそれぞれの島での跡地を追っている。今回は宇久島での捕鯨について訪ねてみた。 宇久島資料館に展示されている捕鯨船の第二十一興南丸の模型。宇久島の歴史を語るときに捕鯨の歴史も欠かせない。 宇久平港に船が...
福江島

五島列島福江島にある遣唐使船をつないだ「ともづな石」

遣唐使船が福江島に立ち寄った際に船をつないだ石が残っているという。ともづな石と呼ばれた日本遺産を訪ねてみた。 遣唐使船をつないでいたと言われている石 五島を経由して唐に渡った遣唐使船。船が停泊したとされているのが「川原の浦」。現在の岐宿にある川原と言われている。そこにある石に船の綱を結んだといわれている石がある。これがともづな石だ。 ともづな石の前にある標識。背景にある道路などは埋め立て地で、遣唐...
福江島

五島列島福江島 空海が名付けた寺の天井絵 明星院

日本遺産にも認定されている五島列島福江島で最も古い寺とも言われている明星院。ここの本堂にある天井絵は必見。 空海が名付けられたといわれる明星院 明星院は、真言宗の古刹で五島八十八ヶ所霊場巡りの一、二、四番札所になっている。804年(延暦23年)に空海が唐から帰朝する途中にこの寺に籠り、朝の明星の光を見てこの名を寺につけたといわれている。 明星院に向かう参道に掛けられた明星院橋。朱色の橋が目を引く。...